かつては自殺したいと思っていた僕が前向きになれた考え方
どうも管理人です。
なんだか嫌なタイトルですね。
すごーく嫌なタイトルです。はっきりといいますが、僕はかつて常に自殺したいと考えていました。ひどい精神状態でした。
その時のことについてちょっと書こうと思います。
▼生きる理由を見失った大学時代
なぜ生きる理由を見失ったのかは、以前の記事に書いたので割愛しますが、もうどうしていいのかわからないくらいのどん底まで精神状態は落ちに落ちていました。
ちなみに仕事とかで今でもつらいことは当然ありますが、今思い返してもここまで辛かったのは最初で最後でしょうね。
なんていえばいいかわかりませんが、当時の僕はこんな感じの自覚症状がありました。
- なにをするのも緊張しなくなる→死んでもいいから
- 人になにを言われても気にしなくなる→死んでもいいから
- 周りの目は気にしなくなる→死んでもいいから
他のみなさんはわかりませんが、当時の僕はこんな感じでした。
でも自傷とかはできないし、本当に自殺をすることもできませんでした。なぜって死ぬのが怖かったからです。
死にたい死にたいと、思っている僕自身が死ぬのが怖いなんて笑えてきますが、だいたいみんなこんな感じだと思います。
おそらく本当に自殺まで踏み出す人は、ある時、きっと決定的なきっかけが起こるのだと思います。
潜在的に人は死ぬのが怖いと思うようにできています。それはもうお腹がすく、のどがかわく、そういった生理現象に近い力で死ぬのが怖いと思っています。
だって、死んだらすべての感情がなくなりますからね。嬉しいも悲しいも一切存在しない世界になります。もし天国や地獄があるのなら別ですが、この世にはこの世しかないと僕は思うので、死んだらすべてなくなるんです。
僕はそれがとても怖くて、でも死にたいという気持ちはあって、まともな状態ではありませんでした。
▼こんな時、きっと人は宗教にはまる
神様ってみなさん信じますか?
信じる人は救われるとよく言いますが、それはあながち間違いではありません。
なぜならひとたびこの世に神様がいることになれば、すべての辛いことに意味が生まれ、すべてが肯定されるからです。
だって、神様はすべてを知ってますよね?全知全能ですから。もしすべての出来事を神様が決めているのだとしたらそれは絶対に間違っていないのです。
だから神様がいると信じた瞬間、悩みという概念がそもそもなくなります。細かい部分はそれぞれの宗教で違うと思いますが根本的な思想はこれにつきます。
でも僕は残念ながら神様を完全に信じきることはできませんでした。たとえば通り魔に殺された人がいるとします、しかも本当になんの罪もない普通の人です。
一体どうやってその人の死の理由に納得のできる説明ができるでしょうか?
また原爆で死んでしまった人たち、彼らの死の理由にいったい誰が註釈をつけることができるでしょうか?
だから、僕は神様を信じることができませんでした。
▼ある言葉。
そんなとき読んだ本が大江健三郎さんの「個人的な体験」という本です。
細かい内容は伏せますが、悩みぬいた末、最後に主人公が「答えはゼロだ」という考えにいたります。
これは失うものは何もない、ということなのですが、一言にすると軽いそんな言葉も小説の中で主人公と一緒に苦しんだ末、その答えにたどり着いた僕は完全に自分に重ね合わせていました。
死にたい、死んでもいい、という考え方を、ネガティブなものからポジティブなものに一気に反転できたのです。
死にたいくらい自分に何もないのであれば、失うものも何もないんだから好きにいきればいいんだ。僕はこの答えにたどり着いたのです。
▼本当の意味の死ぬ気
僕は死にたいという気持ちを逆に自信に変えることができました。
あれから何年もたちますが今でも自分のなかで自信になっています。
よく、挫折した経験は大事といいますが、こういうことを言うんだと思います。
挫折の経験を自信に変えるんです。僕はあれだけ苦しんだんだから、他のへらへらしてるやつたちには絶対に負けない!という気持ちをもって生きています。これが本当の意味での死ぬ気で生きてる、だと思います。
この考え方は違う!という人もいると思います。でもそれでいいんです。
自分が納得できる考え方は、自分が苦しんだ末に見つかるものだと思います。
この記事が多少誰かの役に立つことを、なにかのきっかけになれば幸いです。