僕の頭の中の悪霊~作家志望の雑記ブログ~

小説家になりたい人の書評メインのブログ。小説の創作論や、漫画アニメのサブカル、箱根駅伝のことなども語ります。

なぜ長距離走はアフリカ選手が早い?ケニア人、エチオピア人について。

どうも管理人です。

年末年始と色んな駅伝が行われたわけですが、どの駅伝にもアフリカ人選手が参加しており、それぞれ大きな活躍をしていましたね。

山梨学院大学ケニア人選手を毎年起用するのは有名ですが、実業団駅伝のニューイヤー駅伝ではほぼ全チームがアフリカ人選手を起用していますし、高校駅伝でもまだ数校ではありますが起用している高校が見受けられます。

なぜアフリカ人選手を使うのか、理由は簡単日本人選手より圧倒的に早いからです。

なぜ、彼らは同じ人間なのに早いのでしょうか?

 

▼世界大会はアフリカ選手の独壇場。

話を世界大会の舞台にしますと、長距離走はご存じの通り表彰台を大体アフリカ勢で埋められます。世界記録も1500メートル以外は全長距離種目アフリカ勢の記録です。

つまり日本人が遅いんじゃなくてアフリカ勢が世界で見ても際立って早いんですね。

特にマラソンなんかはよくわからない特に実績のない選手が初マラソンで日本記録を平気で上回ったりします。

高岡寿成が日本記録を出した時は、世界歴代一桁に入る記録だったのですが、あっという間に様々なアフリカ勢選手が台頭し、高岡の記録は世界的にすぐに珍しくなくなってしまいました。

だから日本人は日本記録を出しても対等に戦えない相手と勝負をしているわけです。

 

▼話をケニア人留学生に。

話をアフリカ系留学生に戻しましょう。アフリカ系といっても大体はケニア人の留学生なのでケニア人と言うことにします(拓大のデレセとかはエチオピア人だけど非常にまれ、なんかエチオピア人の方が受け入れるのにお金がかからないらしい)。

当然早いです。ケニア人留学生。駅伝だといつもごぼう抜きをしている印象が強く、持ちタイムも日本人選手より早いor日本人トップクラスです。

当然ちょっとずるくない?という声もあります。やはり元々の身体能力が高いのは間違いないので、毎年起用区間で大きなアドバンテージが計算できるのはまちがいないのですから。

僕ですらそう思うのですから、一般視聴者の目には余計にそう写るでしょう。

でも、ちょっと視点を変えてケニア人目線で考えると少し違った考え方になるかもしれません。

 

▼僕たちはケニア人選手と同じことができるだろうか。

考えてみてください。ケニア人留学生って異国の地、日本で、日本語もまともにわからないのに日本人に混じって一人で競技生活を送ってるんですよ?

食べるものから習慣ひとつとっても何から何まで母国とは違う。そしていくら足が早いとは言ってもきっつい練習を毎日おこなう。

当然、貧困国から日本に来る感覚はまた違うでしょうが、僕たちに同じことができるでしょうか?たとえば、アメリカに僕たちが同じ状況で行くとします。

大半の人は精神的にまいっちゃいますよね?

じゃあ彼らに一体なんのメリットがあるのだろうと言うと、収入です。

彼らにとって卒業後日本の実業団で働くことで得られる収入は、家族を養う上でケニアで過ごすよりも大きなメリットになるのです。

つまり、彼らにとって走ることは生きていくということに等しいのです。

だから辛くても頑張る。名誉とかももちろんですけど彼らは僕たち日本人とは違う意味でお金のために走っている。

日本人は正直走れなくても生きていく上には全然困りません。だからなんだろう、彼らとは身体能力を除いた部分で次元が違うのです。

ちなみにこの考え方を熱心に説いていた指導者が元佐久長聖高校監督、現在東海大監督の両角監督です。

この教えが響いて、あれだけ佐久長聖高校を強豪に育てあげれたのかもしれませんね。

 

大迫傑はある意味ケニア人的?

佐久長聖と言えば大迫傑選手。

書いていて気づいたのですが彼もケニアの留学生みたいに今アメリカに行っていますね。

これもなかなかの覚悟が必要だと思います。実業団を辞め、結果がでなければ除籍のオレゴンプロジェクトに加入、言葉がわからなければ生活習慣も全然違う環境に自ら飛び込みました。

並みの覚悟では挑戦しにいけないと思います。

大迫傑選手は当然素質にも恵まれたランナーであることは間違いないのですが、走ることに人生をかけているという点ではケニア人と一緒で、だからこそあれだけの結果を出せているのかもしれませんね。

 

▼留学生選手から学びとる。

アフリカ人留学生は「なんかちょっとずるい」という枠組みだけでは考えてはいけない存在だと思います。

そしてそんな留学生と寝食を共にする学生は様々なことを学びとれるのではないでしょうか?

だからこそ山梨学院大学は毎年ケニア人留学生を採るのかもしれませんね。

僕たちも何事も本当に覚悟をもってやっているのか?この言葉を胸に日々過ごしていくべきなのかもしれません。