小説を書くこと 創作について③
どうも管理人です。
もはや③になってしまったこの題名ですが、
やっぱり自分のことを整理するためにも書く必要があるため書いていきます。
▼フォークナーや、中上健次の世界。
フォークナーや中上健次は、ひとつの土地を舞台に徹底して小説を生み出してきました。
フォークナーはヨクナパトーファ、中上健次は紀州。舞台は一緒で、時には登場人物も一緒で繰り返し繰り返し物語を作っていったのです。
僕が小説を書く上でいつも思っているのは、ただ物語がべたーっと貼り付いているだけの小説は書かない。という点です。
僕は小説には核みたいなものが必要だと思っています。これは一般的にいう起承転結とかとは違って、思想だとか、登場人物に本当に命が込められているか、そんな感じの作家の野心的な力が込められているかどうかです。
ちなみにライトノベルは本当に物語がべたーっと貼り付いているだけの小説が多いです。
話をフォークナーと中上健次に戻しますが、この方法での創作は僕も好きです。
自分に才能がないだけな部分もあるのですが、同じ土地を舞台に、同じ登場人物を使って小説を考えていくとどんどん世界が深化していきます。包丁を研ぎ続けて洗練させていく感じですね。
僕はコロコロ舞台を変えて創作をすると、ひとつひとつがどうしても浅くなりがちなので、同じ土地をベースに創作をしています。
簡単にいうと何巻にもわたって発行され続けているライトノベルも、1巻がたとえ微妙だったとしても、作者がその世界を書くことにどんどんこなれてきてなんだか面白くなってきますよね。
まぁそれが無理して続けているのであれば逆効果だと思いますが、
この手法による洗練具合が文学的な価値を生むと僕は信じています。
▼文章はうまいほうがいいのか?
個人的に文章は下手でなければ問題ないと思います。かのドストエフスキーも、エミリーブロンテも、文章はあまりうまくないようです。
それでも彼らは100年後も読まれ続けるでしょう。
あとは日本でいえば大江健三郎さん。
僕が好きな作家のひとりですが、文章は非常にわかりづらいです。正直、うまい文章とはいえないと思います。噂によると英語、フランス語に訳しやすい文章を狙っていると聞きますが、
おそらくそこまでは考えていないのかな?とは思います。
ただただ、大江健三郎さんの『何度も読み直して書き直していく』というスタイルが一文に過度な意味を含ませていく結果、あのような時には日本語になっていない文章が生まれるのでしょう。
でもあの文章にはすごみがあるんですよね。
まったく新しい文体ともいえると思います。うまさよりも、あぁいった『自分という人間を表した文体』こそが、小説家には必要な文章力だと思っています。
▼死ぬ気で小説を書く
僕は死ぬ気でかかれた小説は、どんな小説であっても価値のあるものだと思います。
反対に頭でつくっただけの小説には何の価値もないと思っています。
文章にはやはり人の気持ちが込められます。その気持ちを他人に読ませ、何らかの影響を与えることこそに文学的価値があると僕は思うのです。
そんな小説を書くためには、やっぱり日頃から一生懸命生きないといけないと思います。一生懸命生きていれば自分の思想が生まれてきますし、物事について真剣に考えることができるようになります。
でもこれって人間として生まれてきた以上、小説家を目指さなくても一生懸命生きるべきですよね?
僕は一生懸命生きている人が好きです。
そしてそんな人たちが書いた本を読むのが好きです。
現代ははっきりいって、小説が衰退してきています。それは今の日本の環境が一生懸命生きている人を少なくしている他ありません。
僕はまた、小説が復活する日を待っています。